ミクロコスモス頒暦所

それは美意識とかではなく

 宇宙ステーションヘルタで依頼を終えた昼下がりのこと。そういえばあれ﹅﹅がもう買い換えの時期だったかもしれない――穹はふと思い立って、購買に出向いた。慣れたことであるはずなのにどこかぎこちない動きでそれをレジに通して、手元の端末をかざす。1994信用ポイント。
「アリガトウゴザイマシタ! 端末ノオ取リ忘レニ、ゴ注意クダサイ!」
 誰が見たって別に後ろめたい事は何も無いのだが、有人レジだとどうにも小っ恥ずかしいので、いつも無人レジで買ってしまう。品物を中身の見えない袋に仕舞って、星穹列車に帰ると。
「ただいま」
「遅かったな」
 ラウンジでドリンク片手に丹恒が本を開いていた。ここで読んでいるということは、資料とかではなく普通に小説や随筆の類なのだろう。ちょっと珍しい。
「ああ、ちょっと用事があって」
「そうか」
 丹恒がふと穹の手元に視線をやった。そこに握られているのは、黒い手提げ袋。ああ、隠しておけばよかった。でも隠す場所も無い。「何を買ったんだ?」なんて聞かれたらどうしようかな――などと穹が考えていると。
「入り用のものでもあったか?」
「そんなところ」
 思ったより当たり障りのない尋ね方だったので、穹はなんでもない風に返事をして、そそくさとパーティー車両の階上へ足を運ぶ。こういうとき丹恒はあまり突っ込んだ事を聞いてこないので助かるな、なんてことを思いながら。
 そうして自室に転がり込んだ穹が袋からがさごそと取り出したものは、黒いファイル爪やすりとネイルオイルだった。どう見積もってもお洒落には無頓着そうな少年が何故こんなものを常備しているのか――話は数ヶ月前に遡る。

「姫子って、なんでそんな爪が綺麗なんだ?」
 食堂車で朝食のホットドッグを囓りながら、穹は姫子にそう尋ねた。
「あら……褒めてくれるのは嬉しいけれど、残念ながら何も出ないわよ」
「いや、そういう事じゃ……まあ褒めてるのは褒めてるんだけど……。槍を握ってると、熱いんだかなんだかで爪がボロボロになるんだ。姫子も炎の力を行使している割に、爪ピカピカだなって」
「なるほどね、どうやってケアしているのかが知りたいって事かしら」
 そうして姫子に教えてもらったことが山ほどある。爪というものは意外と脆いものらしく、圧力ももちろんだが、それに加えて乾燥と水分に弱いのだという。そういうわけで、炎の力を行使すると、熱や水蒸気で損傷を受けやすいそうだ。だからこまめにネイルオイルなるものを塗っておくといいらしい。
「それと、慣れないうちは焦れったいかもしれないけれど、形を整えるのに爪切りじゃなくてファイルを使うといいわ」
「ファイル?」
「そう、爪に使うやすりみたいなものよ。これを使うと、ダメージがかなり減るの。どっちもヘルタの購買なんかに置いてあるわよ」
「なるほど助かった、ありがとう」

 ファイルはともかく、ネイルオイルは沢山の種類……というか香りがあって、案外選ぶのが楽しかった。初めはすごく無難に石鹸の香りを選んで、ちょっと飽きた頃に柑橘シトラスの香りに乗り換えた。なのかが好きそうな薔薇やら林檎やらの香りはあまりキャラじゃないが、こういった爽やかなものは比較的抵抗なくつけられるし、多分丹恒も好きだ。まあ爪から良い香りがするなんて、おそらく彼は気付いていないが……。

 ――と、まあ、そのような経緯で穹は爪のケアを念入りに行うようになった訳である。
 新品のファイルを開封して、机にティッシュペーパーを広げる。少し伸びた親指の爪にざらざらの面を当てて引くと、しゃり、と音を立てて粉がペーパーに落ちていく。姫子の言うとおり、このやり方で爪を整えるのは爪切りより余程時間がかかって焦れったいのだが、このひとときは穹にとって意外と苦ではなかった。敢えてデメリットを挙げるなら――。

「穹。少しいいか」
 こうして時折、邪魔が入ることだろうか。
「え、あっ……ちょっと待って!」
 おそらく扉の向こうにいるのは丹恒だ。穹は慌ててティッシュペーパーを丸めてゴミ箱に放り投げ、ファイルとオイルを蓋付きのケースに押し込んだ。……本当は見られたところで何か問題があるわけでも無い。「爪の手入れくらい別に隠さなくても良いではないか」というのが客観的な感想になるだろうが、穹はこの事を未だに姫子以外には明かすことなく――いや、姫子にすら本当の目的は伏せたままで、一人で隠れてやっている。
 それもそのはず、発端が「情事の際に恋人の秘所へ傷をつけたくないから」であるとは口が裂けても言えず、なんだか恥ずかしいことをしているような気分になって、堂々としていることができないのである。
 聡い丹恒の事なので、見られて勘づかれでもしたら顔から火が出ること請け合いだ。いや、実のところ気付いていて、その上で黙ってくれているのかもしれない。とりあえずのところ、本人から何も言われない限り、これは穹だけが知っている密かな優しさと習慣なのである――。

送信中です

Category: