ミクロコスモス頒暦所

万象の端無きが如く

 まあなんと言うか、こっぴどい風邪をこじらせてしまった。
 理由に関しては、少しの疑問を挟む余地もない。依頼で鱗淵境に赴いた昨日の朝方、砂浜から少し離れたところに漂流瓶を見つけたので、中身を見てみようと後先考えず飛び込んでしまったのだ。日が出て間もない時間帯の古海はなかなかに冷たく、しかもそのまま湯も浴びずに浜辺をうろうろしていた。そんなことで、丸一日経った自分を襲ったのは、猛烈な悪寒と胃腸の不快感だった。
「しばらく外出は厳禁だ、診ていてやるから資料室ここで寝ていろ」
 優しいのか手厳しいのか、丹恒はそう言って布団を明け渡し、一日中そばにいてくれた。激しい倦怠感から端末をいじる気にはならず、紙を捲る音やサーバーの稼働音を耳にしながらぼんやりと眠ったり覚醒したりを繰り返す。
 そうして時間が瞬く間に過ぎ、夕方を迎えたあたりで、丹恒が夕食を持ってきてくれた。
「粥を作ったが食べられそうか」
「かゆ?」
「米を柔らかく煮たものだ」
 米、米は分かる。つまりチャーハンを合成するときに使うアレだ。アレを柔らかく……柔らかく? いまいち想像がつかない。ふにゃふにゃの米はどのような食感なのだろうか。
「丹恒って料理できたんだな。それ、美味いのか?」
「薬膳の範囲でなら……まあ、不味く作ったつもりは無い」
 じゃあありがたく、と頂いたその〝粥〟なる料理は……独特の味だった。美味しくないとかではないしむしろ食べやすい。しかし慣れない香りと辛味がある。これは何の味かと尋ねたところ、身体を温め吐き気を抑制する香辛料が入っていると言われた。スパイスって便利だ。
 正直なところそれほど食欲は無かったのだが、その柔らかさと、なにより丹恒のお手製料理という〝激レア属性〟によって、するすると食べきってしまった。
 匙を置いて「ごちそうさま」と声を掛けようとしたところで、彼が「はっ」と声を立てる。
「どうしたんだ?」
「粥の前に薬を飲ませなければならなかった……」
「そうなのか? 薬って、食事の後じゃないのか?」
 ヘルタの医療課やナターシャの診療所で薬を処方されるときは、だいたい食事の後で服用するようにという注意書きが付されている。てっきりなんでもかんでも食後に飲むものだと思っていたのだが。
「化学的に合成された薬は食後に飲むことが多いが、生薬は食前が基本だ。すまない」
「効くなら全然いいよ」
 そんなやり取りの後に手渡された薬包をまじまじと見つめる。包みの中にある砂のような色をした粉は、いかにも植物を乾燥させて作りましたと言わんばかりの見た目であった。
「これ……何が入ってるんだ?」
「麻黄という植物が中心で、発汗作用がある。このまま長引くなら解熱作用の強い柴胡に切り替えるつもりだ」
「ふうん、羅浮の薬ってなんか変わってるよな」
 粉を一気に流し込むと、なんとも言えない苦みが口いっぱいに広がる。それからカップいっぱいの湯を全て飲み干して、その苦みを喉の奥へ追いやった。錠剤と違って味が直接的に伝わってくるのが嫌なところだ。
「生薬は、細胞や臓器は全て繋がっているという思想の元で、自然治癒力を重視して処方される。対症療法に秀でた化学薬品と大きく異なる点だ」
「全て繋がっている、か……それって、ひとつの星の海みたいに?」
 頭の中に浮かんだのは、昨日飛び込んだ波月古海だった。羅浮は舟であって星ではないが、それでもあの海の水は、どこかからやってきてどこかへ去り、また戻ってくるものではあるだろう。
「……かも、しれないな。海が川や雨となって再び海に還るように、血や気も巡っている」
「そう考えると海って生き物みたいだな」
 ――生き物? 何気なく生き物と言ってみたが、それでは人の手で作られた星核の媒体ベクターにこの〝繋がり〟はあるのだろうか?
「俺って生き物なのかな……」
「急にどうした」
「いや、人造人間じゃん、俺。効くのかな、こういう薬」
 具合が悪くなると、なんとなく弱気になってしまう。急にセンチメンタルなことを聞いてくるな、などと思われただろうか。
「……生命とは、何も物質を表す言葉ではないだろう。お前が生きたいという意思を持っていて、その意思に基づいて動いているならば、疑う余地は無い」
「なるほど」
「納得したなら横になっていろ。早く治したいだろう」
 促されて再び布団に横たわる。相も変わらずこの空間は温かい。
 食器を片付けると言って食堂車へ去って行く丹恒の背中を眺めながら、ふと考えた。幽囚獄で過ごしていた間、丹恒に「生きたい」という感情はあったのだろうか。
 答えは彼自身にしか分からない。しかし、その苦しみを少しでも分かち合うことはできないだろうか? 溟海の端無きが如く、血気の端無きが如く、人の縁だって繋がり巡っているのだから。

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