五感は嘘を吐けない
「あーっ、疲れた!」
時は真夜中、星穹列車のラウンジ、忍び声でそう叫ぶ少年がひとり。
ヤリーロ-VIで希少生物の観察をすると言いだした丹恒に、俺もついて行くと穹が便乗したのは暮れ方の出来事だった。そこから雪原でフィールドワークに打ち込む丹恒を穹が見守ったり手伝ったり、ときには茶化すこともありつつ、経過すること数時間。観察対象が吹雪の彼方へ姿を消したので、身体にこんもり被った雪を払い落として、列車に帰還したという訳である。
流石に消灯時間を過ぎた車内はあまりにも静かだ。おそらく、他の乗員は皆、夢の中だろう。
「さっさとシャワーを浴びて寝るとしよう」
同じように声を殺して丹恒が呟く。身体も冷え切っているのでぜひそうしたいところである、と穹は頷いた。ふたりで「穹が先に入るか?」「丹恒が先でいいよ、出たら連絡ちょうだい」などと会話を交わしながら、客室車両へ移動する。「それじゃあ」と言って資料室の扉に手を掛けた丹恒だったが、突然思い出したように「……あっ」と静かな声を発した。一度は彼の横を通りすぎた穹が、ふっと振り返る。
「え、どうした?」
「ああ、いや……個人的な事だ、すまない。洗髪料が切れていたことを、今になって思い出したんだ」
彼の説明は若干言葉が足りなかったが、言いたいことはおおむね穹でも理解できた。つまるところ「自分が使っているシャンプーを切らしていたのに買い足すのを忘れていて、こんな時間になってその事に気がついた」ということだろう。丹恒が自分のシャンプーをどこで購入しているのかは定かでない。カンパニーの通販かもしれないしヘルタの店舗かもしれないが、いずれにせよこんな夜更け早更けでは、即時調達をしようと思っても不可能であることは明らかだった。
「俺のでいいなら使うか?」
そうなると、穹の反応は一択である。おそらく丹恒は「石鹸で洗うから問題無い」みたいなことを言い出すに違いない。しかしながら、穹は丹恒の、艶はあるけれど柔らかくてふわふわな墨色の髪を撫でるのがいっとう好きだった。そのため、「無遠慮に洗いでもして軋んでしまったら勿体ないな」という感情があったのだ。
「……悪い」
「いいってことよ」
そんな訳で、穹から渡されたバスケットを手に、丹恒はシャワールームへやって来た。蛇口をきゅ、とひねってしばらく待つと、もくもくと湯気が立ちこめる。手を差し伸べて適温であることを確認した後、服を脱いでタイル張りの空間へ足を踏み入れてから、半透明のガラス戸を閉じた。
そうして湯に打たれながら、彼はふと気になってみる――「穹は一体、どんなシャンプーを使っているのだろうか?」と。知ってどうするんだという思いもありはしたが、結局好奇心が勝って、ポンプを押す前に一旦ボトルを眺めてみることにした。丸みのあるオリーブグリーンのプラスチック製容器で、可愛らしくも大人びた雰囲気だ。製品名と成分表示以外の余計なことは書かれておらず、「案外お洒落な物を選んでいるのだな」と丹恒は意外に思った。本人には悪いが、往来でいきなりゴミ箱を漁りまくるような人間だから、こういったことにも無頓着だと勝手に予想していたのだ。
匂いは……〝やさしいシトラスハーブの香り〟と小さく表記されている。これに関しては試した方が早いだろう。ボトルを棚に置いて、ポンプをワンプッシュする。色は透明。そっと鼻を近づけてみたところ、確かに〝やさしい〟と謳っているだけあって、柑橘類特有の清涼感は程々に感じつつも、ハーブ――おそらく薫衣草か加密爾列あたりだろう――の香りで癒やされるような心地がした。
似たような香りのトリートメントもありがたく頂戴し、それから石鹸で身体まで洗ってシャワールームを出る。タオルで身体の水気を拭き取った後、着替えの上に置いてある端末を手に取り、穹へメッセージを送信した。
「シャワールームだが、もう使って構わない。今回は助かった」
替えの服を着てからランドリーへ洗濯物を出して戻ると、深夜とは思えない陽気な調子で穹が脱衣所へ突っ込んできた。お礼を述べて彼へバスケットを手渡し、丹恒は洗面台へ移動する。椅子に腰を落ち着けてからドライヤーの電源を繋いで、誰かを起こさぬよう風量は控えめになるように、かち、とスイッチを入れた。
……それから数分が経過したあたりで、ふと自分の髪から優しい香りがふわりと立ちこめて、彼は気付く。当然と言えば当然なのだが、これはいつも穹を抱きしめているとき、もしくは抱きしめられているときに感じる、爽やかで優しい香りだ。美しいホワイトアッシュの髪の毛にくしゃくしゃと触れたときの、あの香りだ。
何しろそれが自分の髪からしてくるものだから急に恥ずかしくなってしまって、まだ乾いてない毛先があるにもかかわらず、丹恒はドライヤーの電源を切ってしまった。すると、そこに。
「あれ、まだいた」
シャワーを済ませた穹がそう言いながらやって来る。丹恒は「まだとは何だ、お前が烏の行水なだけだろう」と返してやりたいところだったが、現在の感情が感情なだけに、怪訝な顔をして穹を見つめることしかできなかった。その、わずかな挙動不審を穹は見逃さない。
「なんか、様子がおかしくないか?」
「……おかしくない」
「いや、そう言うときは絶対おかしいヤツだろ――もしかしてシャンプーの匂い、苦手だったか?」
気遣いのつもりなのか、あるいは自覚があって言っているのか。この際どっちでもいい。そこまで掘り起こそうとしてくるのであれば、素直に白状してやろうじゃないか。丹恒は白旗を揚げざるを得なかった。両手で口を覆い、穹と目を合わせないようにして、ぼそ、と呟いた。
「当たり前の事なんだが……自分からお前の香りがするから……少し、気まずい」
それを聞いた穹は一瞬のきょとんとした表情を経て、その後目を輝かせる。――やはりか、と、丹恒が溜息をつこうとしたところに、視界が遮られてどさりと人肌の温かみが触れてくる。ああ、抱きしめられているな、今――と思っていると、そのまま穹が丹恒の髪の毛に自分の鼻をぐりぐりと押しつけ始めた。
「ふっ、確かに俺の匂いがする」
「おい」
「まあ、いつもの匂いの方が、丹恒っぽいかも。あれって何の香りなんだ?」
「……白檀だ」
「香木だっけ? いいよな、それ。落ち着く香りなんだけど、なんというか、深くて甘くて、色気がある~っていうか」
「言い方というものがあるだろう……」
そこまでやり取りをして、穹はようやく丹恒を抱擁から解放する。が、この大物開拓者、決してそこで終わる男ではない。そのまま右手で丹恒の顎を掬って、互いの視線がばち、とぶつかるように仕向けた。そうして、ちょっと低い声で、吐息のように語りかける。
「でも、俺の匂いを纏ってる丹恒も、それはそれでそそるかも――後で資料室行っていい?」
「っ……」
予想外の言葉に気が動転し、丹恒はどっと頬を紅潮させた。その様子に満足したらしい穹は、一転、無邪気にいたずらっぽく笑ってみせるのであった。
「丹恒って、匂いとか声とか、そういうの敏感というか、弱いよな」
「な……誰のせいだと……」
「ん、俺のせいだろ?」
「……」
きっとこの後も、耳元で囁いてやる度、丹恒は躰を震わせて応えてくれるのだろう。穹はすでに、全身が疼いてたまらなかった。いつもは自分が〝丹恒の一部〟だが、今日は丹恒が自分の一部になったような気分を味わえるに違いない。「ありがとう丹恒のシャンプー、無くなってくれて……」などと、穹は訳の分からない感謝の念を抱くのであった。
丹恒って、匂いとか声とか、そういうの敏感というか、弱いよな――。先程、洗面台で穹に言われた言葉を、丹恒は反芻していた。
思い返せば、確かに自分は五感が鋭敏な方な気はする。ずっとひとりで生きてこなければならず、身体の変化に対して常に気を尖らせていたためかもしれない。痛み、餓え、渇き、緊張。これらを機敏に感じ取ることが、身の安全を確保する上で重要だったことは想像に難くないのだが――。
「何考えてるんだ?」
「っあぁ……ッ!」
と、そこへ。胎の奥に熱をずし……と捻じ込まれる感覚で、彼の思案はぷつりと切れた。濡れた声が資料室に響き渡って、思わず手で口元に蓋をしようとする。が、そうはさせまいと言わんばかりに、穹はその手首を掴んで、布団に縫い付けてしまった。
「我慢しなくていいから」
耳元で、理性を焼き落とすように、そう囁かれる。丹恒は自身の裡がうねるのを感じた。心臓の鼓動はどんどんと速くなるし、背筋もぞくりと粟立っていく。
「ん、あ……っ! きゅう……!」
「ふ……やっぱり声に弱いな、丹恒って」
どうにか反論をしようとしてみるが、解け始めた思考力を取り戻すことはかなわない。そもそも今の指摘は明らかに事実なのだから、反論の余地も無いわけだが。
穹の欲望が丹恒の中をぐっと圧迫して、とん、とん、と静かに奥を暴こうとする。そんな穹の表情を垣間見ると、艶然とした笑みを浮かべていて、丹恒は思わず胸が締め付けられる気分になった。ある程度来るところまで来たら、のしかかられながら恥骨をぴったりとくっつけられて。そのまままとわりつくように、ゆっくり、ぐりぐりと刺激を与えられ続ける。緩い快楽ではあったものの、それには途切れ目が無く、彼はがくがくと躰を震わせることしかできなかった。
「奥、届いてるの分かるか?」
「っは、あ。分か、る……ッ」
「ん。気持ちいい?」
丹恒は、穹と躰を重ねて間もない頃、彼が投げかけてくるこういった質問に対して「どうして逐一自分の様子を聞くのだろう」と思っていた。いくら気を遣りそうとはいえ置かれた状況など当たり前に分かるし、股座にあるものを見れば気を悪くしていないことだって穹には伝わっているはずなのに、と。
しかしながら、数を経るごとに、丹恒はなんとなく理解したのである。
「ああ、気持ち、いい……」
分かりきったことでも、恥じらいがあって口にし難いことでも、こうして正直に言葉にしてみると、互いの心が繋がって満たされたような感覚がするのである。
「穹」
「どうした?」
「手を、繋いでくれないか」
穹の香りを纏って、その事実に酔っているのか知らないが、なんだか今日は彼に甘えてもいいような気がした。その匂いが、声が、温もりが、自分をどこまでも溶かし尽くす。そして、確かに、それを求めている自分が、いる。
「今日の丹恒にそう言われると、なんか興奮するな」
「ん……」
穹が少し顔を赤くして、ふふっ、と笑った。それから、掴みっぱなしになっていた丹恒の腕を解放し、自身の掌と彼のそれを重ねて指を絡ませる。
「あ、中、きゅってした」
「っ……は、あ。穹、好き、だ……」
そんな丹恒の言葉を聞いた穹は、深く優しい口付けでお返しとした。こうして甘やかに啼く声を聞いていれば、じきに抑えきれなくなった精が自身の躰を駆け上がって、丹恒の裡を満たすことだろう。全身でそれを受け止めて溺れる愛しい人の姿を、穹は待ち焦がれている。
丹恒って、匂いとか声とか、そういうの敏感というか、弱いよな――。先程、洗面台で穹に言われた言葉を、丹恒は反芻していた。
思い返せば、確かに自分は五感が鋭敏な方な気はする。ずっとひとりで生きてこなければならず、身体の変化に対して常に気を尖らせていたためかもしれない。
しかしながら、こうして愛しい人と快楽や安寧を享受できるなら、それは悪くないことだ、と。残されたひとかけらの理性で、丹恒はそのように考えてみた。
五感は、嘘を吐けない。