境界線を侵す
自分が列車に乗ったばかりの頃。
資料室に積み上がった大量の本を整理する傍ら、それらを読み漁った時期があった。あるときふと開いた一冊の書物のことは、今でも印象に残っている。
それは人の成長過程における心理の発達について解説された学術本で、たくさんの用語の中でもとりわけ関心を惹いたのは〝自他の境界〟と呼ばれる概念だった。
要約するとこのようなものだ――〝自他の境界〟とは、心の働きによって引かれた、〝自分がどこから始まってどこで終わるのか、他者がどこから始まってどこから終わるのか〟を区別する境界を指す。自他の境界が曖昧な人は、簡単に相手に入り込まれたり、あるいは不用意に相手の領域に入ったり、逆に極端に距離を取ったりする――。
そして解説はこのように続く――この境界は成長につれて形成されるもので、本来であれば、見解のある大人が設けた安全な枠組みの中で、自己主張の仕方や感情のコントロールを学びながら意識することを覚える。ところがそういった大人が存在しない場合、自他の境界を引けなくなる場合がある――。
正直なところ、この記述を見て、自分には心当たりしか無かった。この列車に乗るまでは、数え切れない宇宙船の中に身を隠して、何かと深く関わるとか責任を負うとか、そういったことにはとにかく抵抗し続けていたのだ。加えて、これまで周囲にいたのは、自分を自分じゃない人間に重ねたり、こちらの領域を憚り無く踏み荒らしたりする者たちばかりだった。だから、仮にこの〝自他の境界〟なる理論が正しいとして、自分はその形成に失敗した側の人間だろうと、そう考えた。
しかしその書物には、このようにも書いてあった――〝自他の境界〟が曖昧なまま成長した人であっても、その存在を強く意識することで、形成を試みることが可能である――。
少なくとも目的地が決まるまでの間、ここに留まることとなる。円滑な人間(人間とは言い難い生命体もいるが)関係を構築するに越したことはなく、とりあえずはその書物の内容を信じてみることにしたのである。
振り返ってみれば、開拓の旅を続ける中でこの理論を参考にするのは、大いに益となる事だったと思う。
列車の護衛や記録員というそれなりに重い責任を負うようになって、自分を律する力がより強くなった。他者と適切な距離感を保とうと思えるようになったので、今までの自分であれば間違いなく固辞していたような人助けも進んで行えるようになった。
とはいえ、この習慣付けを完全に実践できていたわけではない。自分の過去は依然として秘匿し続け、仲間とは必要以上に距離を置いていたし、しばらくして乗り込んできた三月なのかには少々掻き乱されて、ときどき彼女が責任を負うはずの問題に首を突っ込んでしまうこともあった。しかし、「信頼関係を築くならいつか自分の過去について開示すべきだ」とか「あのときの振る舞いは良くなかった」とかいう自覚を持てる事そのものが、良い傾向であると解釈した。
そうこうしているうちに、記憶を失って倒れていた少年――穹――が現れた。
当初の印象は、娯楽小説に出てくるような無垢な子どもそのものだった。だからあのときは、おそらく自他境界が曖昧だろうと思われる彼にとって、〝見解のある大人〟になろうと決意したのだ。
想定通り、穹の自他境界はかなり曖昧だった。他者に属する物事にまで責任を感じ、人助けを積極的に行う。何か頼まれたときに時折「できないから」と言って自分に押しつけてくることがある。好奇心をコントロールできずに我欲に従いゴミ箱を漁ったり凍った鉄柵を舐めたりする。逸話は枚挙に暇がない。
一方で穹は、こちらの抱える問題に、努めて首を突っ込んでこなかった。何かしらの気付きはあったかもしれないが、敢えて聞くことはせず、肝心なところには踏み込まない。そんな一面もあった事は、すごく意外に感じたのを覚えている。
そして彼は、一週間ほど前、この部屋へ本棚を漁りに来た。彼は「社会勉強だ」とか言って毎日寝る前に本を読んでいるようで、そのときは、「読み終わったものを返して、新しいものを借りていく」と言った。あの時彼が興味を示した本が、例の〝自他の境界〟と呼ばれる概念について取り扱った書物だった。「これ、俺でも読めるかな。丹恒は読んだことあるか?」と聞いてきたので、「他者と関わるうえで大切なことが書いてあるから、読んでおけばこれから大いに役立つだろう」と返答した――ように、記憶している。
さて、そんな穹が今、例の本を持って、俺の部屋を訪ねてきている。「丹恒の言う通り、すごく勉強になった」という感想とともに本を手渡され、俺はそれを受け取った。「それならよかった」と本棚に収めようとしたところで、穹が「あのさ」と口を開く。
「『彼も俺の一部だと思って、はっきりと要求を言ってもらって構わない』って言われたの、まだ覚えてるんだけど」
「いきなりどうした、忘れてくれ……」
「丹恒も割と境界曖昧なタイプなのかなって思ったの」
あれは、言葉の綾のようなものだ……と、言い訳をしようと思った。しかし、仮にそれが言葉の綾であっても、思っていないことを口にすることは無いはずだ。つまり……図星、かもしれない。少なくとも「曖昧ではない」という否定はできなかった。彼を支える人間であろうと決めていながら、実はそんな振る舞いができる素質は無いのだという事を見抜かれているとなると、少々情けない気持ちになる。
「俺の周りは、無遠慮な人間ばかりだったんだ。人格者になれるような教育は、受けていない……」
「でも、丹恒、ああいう事って俺にしか言わないだろ」
「それは……そう、だが」
「その本には、〝親密な関係であれば、境界を越えることもある〟って書いてあった。俺、丹恒から境界線を越えてもいいって思われてたのかなって、自惚れてもいいのかなって」
「……」
なるほど、確かにそうだった。〝親子や恋人、あるいは夫婦などの親密な関係であれば、互いの自他境界を越えることもあり、それは悪いことであるとは限らない〟――。彼の指摘通り、自分は無自覚に、穹に対して、とても親密な関係と考えていたのだろうか。――と、そこで、手が止まっていたことに気が付き、本をもとあった位置に押し込める。
振り返ると、いつの間にかすぐそこに穹がいた。気配に気付かないとは、やはり自分は、相当彼に心を許しているのかもしれない。
ふと、穹はにんまり笑って、指の背でこちらの頬を撫で始めた。
なんだか、距離を、詰められている気が、する。
「丹恒、本の内容、覚えてるか? 心理的な自他の境界もそうだけど、物理的な自他の境界の話も」
「物理的な、自他の境界」
「そう――肌」
穹は、俺の頬に添えていた指を滑らせる。そのまま、顎をぐい、と、掴んで。
「……いい?」
――〝親密な関係であれば、境界を越えることもある〟――それは心理的な境界だけの話ではなく、物理的な境界だって同じだ。
早鐘を打つ鼓動が、今にも彼の元へ届きそうな気がした。これから俺たちは、互いの境界線を……侵す。
「お前の、望むままに」