ミクロコスモス頒暦所

夜天と古海の対薬理論

 ピノコニーから帰ってきて、寝付けなくなった。
 体のいたるところが確かに疲労感を訴えているはずなのに、沸き立つ血潮が頭の中で唸りを上げるように波立ち、微睡みに委ねようとするこの身を阻むのだ。
 眠れなくなると、情緒が安定しなくなる。情緒が安定しなくなると、ますます夜眠れなくなる。そうした悪循環を自覚すると焦りが募って、あっという間に抜け出せなくなる。さながら、底なし沼へ突き落とされたかのようだ。
 資料室の布団に横たわって、そんな感情をぽつりぽつりと吐き出す。丹恒はこちらの様子を見ながらただ黙って話を聞いてくれて、それから仰向けになれと言うので大人しく従ったところ、腹を触られ……なんで?
「急にどうしたんだ」
「足を伸ばして全身の力を抜け」
「あ、ああ……」
 なるほどこれはお医者さんモード。こういうときは、大人しくしたがっておくのが良い。
 詳しく聞けば、腹部の筋肉の緊張や拍動の感じ方で不調に関する色々なことが分かるらしい。どこがどうなっていればどういう状態なのかも少し聞いたけれど、流石にこれは右の耳から左の耳だった。
 同じように様々なことが分かるからと、顔色や口の中を隅々まで観察されて、最後に一言。
「キタイだな」
 ――と、彼は口にした。
「キタイ?」
 音の組み合わせに心当たりが無く、鸚鵡返しで尋ねる。期待? 機体? 奇態? どれも違う気がするが。
「〝気〟が〝滞る〟と書く。具体的に説明するのは難しいが、生命力が淀んだ状態のことだ。〝病は気から〟と言うだろう」
 なるほど〝気滞〟か。
 生命力という表現はひどく漠然としているが、まあ生物の目に見えないはたらきにまとめて名前を付けようとしたら、たまたまそういう言い方になったのだろう。
「生理学の立場で説明するのであれば、ストレス反応で自律神経が失調状態にある、という言い方になる」
「失調……そういえば、丹恒の紹介で列車ここに来た行商の……ええと」
「羅刹か」
「そう。あの人からも言われたな。『生体リズムが乱れて脈に異常が出ているから、安神を飲んで仕事と休息のバランスを取ること』って」
「安神……そのときの処方箋が残っていたりしないか?」
 写真なら多分ある、と返事をして、手元の端末で履歴を漁る。ずいぶんと長いことスクロールしたところで、ようやく目当てのものに辿り着いた。共有機能で丹恒のトークルームへ送信すると、彼はそれを眺めながら言葉を繋ぐ。
「これは養心安神か。俺が診た限りでは、おそらく重鎮安神を配する方がよいだろう。後で持っていこう」
 ……ヘルタの医療室やナターシャの診療所で聞くカタカナ語もよく分からないが、羅浮の言葉も劣らず難しい。

 夕飯とシャワーを済ませて自室のベッドで無為に過ごしていると、こんこんこん、と均質な音が響いた。それから金属を通してくぐもった声で、俺だ、と手短に続く。
 扉を開けに行くと、そこには紙袋を手にした丹恒が立っていた。羅刹と同じもの……にしては、いささか大きい気がする。
「なんか……大きくないか」
「羅刹の処方したものは成分を抽出した錠剤だったのだろう。これは煎薬で、携帯性に劣るが効きは良い」
 薬を煎じるなんて俺にはできないぞ、と顔をしかめて見せたところ、それは俺がやる、と言われた。この人はときどき、驚くほどに此方の世話を焼こうとする。実は彼が意外と尽くしたがりな性格なのか、年長者の義務だと思ってそのように振る舞っているのかは定かでない。まあ、単純に自分の常軌を逸した行いを心配しているだけの可能性も否定はできないが。
「そうなのか? でも、俺が煎じないならここに持ってくる必要無かっただろ」
「『あとで持っていく』と言ってしまったからな」
 ううん、相変わらず律儀な人だ。
 こうしてせっかく持ってきてくれたのならば、どんな物か見せてもらおう――そう思って袋を受け取り、中を開けて覗いてみると、三種類の包みが入っていた。「なんかたくさんあるな」と言うと「先煎と言って他より長く煎じるもの、通常通り煎じるもの、粉状のものは補助的に用いる散剤だ」と解説を受けた。
「このでっかいやつがメインか、これは何が入ってるんだ?」
「色々あるが、最も多く配合されているのは柴胡サイコだ。黄色の花を咲かせる植物で、薬には主に根を使う」
 ほう、と首を傾げつつ、実際どんな感じなのか見てみたくなったので、端末で検索する。五弁の可愛らしい小ぶりの花がひとつの株にたくさん咲いていて、なんだか。
「星っぽい」
「……斬新な感想だな」
 一方、先煎の方はというと、包みを手に取って顔に近づけたところ、ほのかに塩気のある香りがした。ついでに散剤も同じように匂いを確かめたところ、こちらも似たような香りだった。
「あとのふたつは塩っぽい香りがするかも」
「先煎は牡蛎ボレイ龍骨リュウコツだな、その香りは牡蛎が放つ磯のものだろう」
「りゅ……」
 想定外の単語に血の気がさっと引く。牡蛎はまあいい、冬になると美味しいアレだ。もうひとつは……龍の……骨……?
「もちろん龍祖不朽の骨ではないし、持明族の骨でもない。医学の世界では、哺乳類の化石をそのように呼ぶんだ。牡蛎もそうだが、要は神経の興奮を鎮めるミネラル剤だ」
 科学的に説明されると急に普通のサプリメントのような感覚がしてくる。物は言い様とはまさにこの事だ。
「じゃあ散剤は?」
「これは珍珠末だ。まあ、真珠を砕いた粉という認識でいい」
「え、リッチだ……」
「宝飾品には使えない品質の粒を砕いている。確かに安価ではないが、おそらくお前の思うような値段にはならないな。おおよそ、10グラムあたり5万信用ポイント程度だ」
「たっか」
 確かに、狐族の美人なお姉さんが身に着けているようなつやつやの首飾りとは比べものにならないほど安い。安いのだが、だってこれ、飲んだら消化されてお終いだろ。
「羅刹の処方は不足した気を補うものだったが、今回は気の巡りを良くして緊張を鎮めるものだ。煎薬は朝に俺が煎じて等分しておくから、食前に飲んでくれ。散剤は気休めかもしれないが補助的に使えば良い」

 次の日の朝、あの粉末たちがどうやって自分の口に入るのか、一回くらいは実際に見ておこうと思い、早起きして丹恒があの薬を煎じるところを観察させてもらった。
 牡蛎と龍骨を組み合わせた先煎を半時間ほど煮出したら、そこへ柴胡などを加えもう半時間。滅茶苦茶に長丁場だろ、これ。羅刹から処方された錠剤は(製法は先進的だろうけれど)体験版みたいなものだったのかもしれない。
 昨日の「星っぽい」という感想を、ふと思い出した。
「鱗淵境の海に夜空を溶かしているみたい」
 ぽつり。そう零すと、丹恒の視線が一瞬、揺らぐ。
「……随分と詩的な比喩だな」
 たかだか薬で、と彼は呆れているだろうか。けれども、火にかけた土瓶やこちらの様子を、今こうして甲斐甲斐しく伺うその柔らかな面差しに比べれば、これくらい何と言うことは無いだろう。
 これが朝の分だと出されたカップの薬液に口を付ける。どんなにロマンチックな表現をしたところで薬は薬なので、まあ当然ながら苦いわけだが。
「今夜は眠れそうな気がする」
「即効性は無いぞ」
「んん、そういうことじゃないんだよ」
 夜天と古海と、そして溢れるほどの愛情で。
 今日も明日も、自分は、生きていける。

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