年頃の乙女は訝しむ
三月なのかには、最近気になることがある。
「じゃあ、夜の九時頃行くから」
「ああ」
別に大事ではない。いま彼女の目の前で朝食を食べ終わったばかりの、この二人の青年にまつわるちょっとした話だ。
穹はときどき、資料室へアーカイブを読みに行っている。普段の奇行を繰り返す様からは想像もつかないが、彼は意外と地頭が良く、それでいて勉強熱心なのだ。しかもなんと律儀なことだろうか、実質資料室の主である丹恒に、ああして必ず事前許可をとっているのであるが――。
「よろしく」
ときどき、彼はそう言って、丹恒の頬を人差し指の背でふっとつついているのだ。そうしたら丹恒は少し気まずそうな表情をする。ほらね、現に今も。
それが〝三月なのかの気になること〟だ。そう、開拓者のカンが囁いている……「恋人同士、これは何かあるに違いない」と。そういう訳で、何も見ていなかった風に、何も聞いてなかった風に、なのかはこの青年たちに声をかけた。
「おはよー……ちょっと二人とも早起きすぎるって。まだ八時だよ」
穹は端末でなにやらメッセージのやり取りをしている。丹恒はコーヒーを飲んでいた。多分、姫子が淹れたものではない……と思う。彼らは何時に起きたのだろう。七時? もしかして……六時? ずいぶん早起きなことだ。今日は何も無いんだからゆっくり寝ていてもいいのに、なんてことを思いながら。
「もう八時だが……」
まあ、丹恒はそう言うよね、となのかは心の中で呟いた。
「なのじゃん、おはよう。食パン用意してるからトースターで焼いて食べろって、パムが」
そして意外なことに、穹も早く起きる。丹恒曰く「寝起きはたいそう良くない」らしいが、かといって休日だからと遅起きすることはあんまり無いらしい。
「ん、分かった」
「じゃあ俺、依頼あるから。お先!」
穹がそう言って、皿を手にキッチンへ入っていく。その姿を見送って、なのかは誰も座っていなかった椅子に腰掛けた。その様子を見た丹恒は、コーヒーを口に運ぼうとした手を止めて不可解な表情を浮かべる。
「……食事は?」
「ん~、もうちょっとしたら」
「そうか」
しばらくして、キッチンから戻ってきた穹が「じゃあな」と二人の横を通りすぎて、降車口へ消えていく。ばいばーい、と笑顔で手を振ったなのかは、そこでようやく席を立ってキッチンに出向いた。氷を入れたグラスへベリージュースを注ぎ、とろけるチーズを乗せた食パンをトースターへ運んでダイヤルをじり、と回す。グラスを持ってテーブルに戻ると、トースターの撥条音は微かに聞こえる程度の音量になった。他に誰もいないし、今なら聞いてみてもいいかな。そう思って、なのかは頬杖をつきながら口を開く。
「ねえねえ丹恒」
「どうした」
「夜にさ、シャワー浴びたらアーカイブ見に行ってもいい?」
「明日は大雨か?」
失礼な。丹恒の皮肉に、なのかはぷりぷりとむくれて見せた。確かに本の虫な丹恒先生や語彙力満点の穹に比べたら自分なんてちゃらんぽらんに見えるかもしれないけれど、たまには勉強したっていいじゃんね、などと考えていると。
「……急ぎでないなら、明日の昼以降にしてくれると有難い」
彼から発せられたのは、要求をやんわりと拒む言葉。ところがなのかは「ここであっさり引き下がってたまるか」という謎の気概で、ちょっと突っ込んで聞いてみることにしたのであった。実のところ、いつも冷静さを崩さない丹恒にちょっと意地悪してみたい思いもわずかにあったのだが。
「あれ、でも夜は穹が来るんじゃないの? 一緒じゃダメ?」
「聞いていたのか……いや……」
そんな生返事をして、それきり丹恒はなのかと目を合わせなくなってしまった。
三月なのかには、最近気になることがあった。
過去形になったのは、今、確信に変わったからだ。
「うーん、まあいいや。明日の昼って言ったっけ? そこで大丈夫」
「……」
ちん、と、トースターが知らせを告げる。そこでなのかは席を立って、キッチンの方――とはなぜか逆方向へ歩き出した。そっちは客室車両では。「パンは?」と聞いてみたが、なのかから返ってきたのは「大丈夫」の一言だけ。丹恒は彼女の言動を露ほども理解できず、考え倦ねるような顔をした。通常運転で奇行に走る人間は穹だけで手一杯だが……。
何が大丈夫だったのだろう、などと思っていると、数分後になのかが何かを握って戻ってくるのが見えた。
「丹恒。これ、あげる」
テーブルにころころと転がったのは、片手に収まるほど小さな、白い円筒状の物体だった。
「は……?」
「リップクリーム。もちろん開けてないからね、新品」
リップクリーム? あげる? これを自分に? 丹恒がいよいよ途方に暮れ始める。なのかは「はあ」と溜息をついて、もといた椅子に再び腰をかけた。
「だって唇荒れてるじゃん。キスするときにそんなんだと気分下がるってば!」
「……っ」
丹恒が声を呑む。その動揺がコーヒーの入ったカップとソーサーに伝わって、がちゃん、と音を立てた。それから骨張った指で自身の唇を撫でる。
ビンゴ! なのかは「してやった」と言わんばかりに笑みを浮かべた。
「はあ、もう、穹ってば。ウブそうな見た目してるくせに、いつもあんな手慣れた誘い方してるわけ?」
信じらんなーい! と、グラスを掴んで、中の氷をカラカラと振り回す。
「おい、声が大きい……」
「わ、ごめんって」
そう。これは、恋人同士である彼らが交わす、秘密のやり取りである。「資料室に行く」と言って、穹が丹恒の頬をつつく……というか撫でるような仕草。それは「今夜お前を抱く」というシグナルだった。
「とにかく、がさついた唇は萎えるって。リップあげるから使いなよ! いやでも、穹はそんなこと気にしない感じ? ていうか、朝にあんなことされて、夜までそわそわしない? 二人ともそういうのが好きなタイプなわけ?」
「立て続けに根掘り葉掘り聞くな……」
そうやって頭を抱える丹恒の顔は耳まで真っ赤だった――恥ずかしくて座に堪えないのも事実だが、何より尋ねられたことの全てが図星で、反論の余地が一切無いのである。
穹は確かに、唇が乾燥しているかどうかなんて気にするくちではない。そもそも、自分の身体はそんな綺麗なものじゃない。目の前にいる少女のように髪の毛や肌を美しく保とうという欲も無いし、日々前線で戦闘を繰り返す中で怪我をしない事の方が珍しい。なにより、遠い昔に牢の中であちこちに傷を負って、それが消えないまま残っているのだ。ところが穹にしてみれば、それがあっても、いやそういった苦難があったからこそ、自分のことがたまらなく愛おしいのだという。
そんな彼が「今夜抱く」という情欲を含んで突然触れてくるのだから、その日は瞑想でもしていないと心が浮き立って仕方が無いし、いざその時になってぎらぎらとした視線で見下ろされ、「準備してきたんだ」とか「期待してた?」などと言われようものなら。「二人でめちゃくちゃになりたい」という欲火が燃え上がって歯止めがきかなくなってしまうのだ。
だからこそ丹恒は想像してしまった。今ここで彼女からリップクリームを貰って塗ってみたら、夜の彼はどうなるだろうか。いけない、これ以上考えてしまうと、穹はおろか、目の前の彼女とすら目を合わせるのが気まずくなってしまうだろう。
「……というかお前、トーストはいいのか。冷めるぞ……」
「あっ、ホントだ! 絶対チーズがボソボソになってるよ~!」
なのかが思い出したかのようにわあっと驚き、キッチンへばたばたと駆けていく。
丹恒はいまや冷め切ったコーヒーカップに視線を落とした。その中身は、ほとんど減っていない。