心を以て心に伝う
日が落ちた金人巷の外れは、すぐそこが繁華街であることを忘れるような静けさに包まれている。
もちろん、無音というわけではない。風が塵や屑を隅に追いやる物音や、開け放たれた建物の窓の向こうから聞こえてくる人声、そしてふとしたときにかしゃんと鳴る金網。一帯で繰り広げられる人の営みの砕片が、時折ここまで運ばれてくる。そんな様子を耳に入れながら、穹とふたりで夜道を拾った。
羅浮での依頼を受託した彼に、同行を願い出たのは自分だ。
多少の摩擦は残りつつも、一応は追放令を取り下げられた身ではある。仙舟のことを見聞したい……というよりは見聞すべきであるという意向は持っていて、実際に何度か巡り歩きはしたものの、表立った用件も無くいきなり訪うと事実無根の憶測が飛び交うということを察してからは、列車の誰かしらに付き添う形をとることにした。実際のところ、その〝誰かしら〟というのは大体穹であるが。
――ふと、己の五感が不穏の合図を送るのを察知した。
どこからだ? 動揺を潜ませ、眼の動きだけで辺りを一瞥する。左後方にある建物の屋根の向こう側に、一瞬、人影を認めた。おそらく左手に槍か長刀を持っていて、此方やその周囲の状況を窺っている。すぐに襲ってくる様子は無さそうだが、時機を見て襲撃してくるつもりでいるだろう。標的はおそらく自分。このまま応戦すると、双方の間に立っている穹が状況を理解する前に巻き込まれてしまう。
歩みは止めず、そっと、左の手背を揺らして、彼の右手袋を掠めた。見込み通り、穹が此方を向く。相手に背を見せる格好になってしまうが致し方ない。目が合ったタイミングで、じっと、その金の瞳に、訴えかける。気抜けしていた彼の表情に緊張が走った。想定外の事態に置かれていることは理解したようだ。そのまま眼差しを走らせて、ちらりと建物の上方へ視線を送る。もう一度両の金眼に向き直ると、穹はぱちりと瞬きをして、それから密やかに笑みを浮かべた。
ここまで理解していれば良いだろう。あとはあちらに勘付かれぬよう、一足飛びに畳みかけるだけだ。
「――下は任せた」
「ああ」
その応えを合図に、ふたりで身を翻す。穹はまず軒先に向かって走りだした。彼はおそらく、人影がどこに居るかを捉えるところから始めることになる。猶予を与えるために、できるだけ自分の身で時間を稼ぐ必要があった。すぐ横は繁華街だ。陽動に出ると無関係な者の目にも入る可能性が上がってしまうため派手なことはしたくなかったが、かくなる上はやむを得ないと割り切って、勢いを付けて地面を踏み切り、大きく飛び上がる。
「クソッ、大罪人の化け物め!」
随分と遠慮の無い物言いだった。やはり自分に対し明確な害意がある無法者らしい。そう吐き捨てた相手は既に応戦状態で、武器を掲げていた。得物は槍。このような場所に証拠など残したくないだろうから、まず投擲はしてこないはずだ。そうとなれば、このまま上空から追い込んで突き落とすのみ。
武器を振るう余裕を与えてはならぬと、着地する寸前に左足を大きく蹴上げて牽制する。これ見よがしに仕掛けた以上、初動の隙を見せてはならない。屋根の上に降り立ってからすかさず間合いを詰めてかかり、撃雲の穂で相手の槍の太刀打を狙う。互いの得物が大きくしなり、相手の槍が宙を舞った。地上でバットを構えていた穹が、落下した槍を拾い上げる。武器を奪われれば、相手は最早逃げ果せるほか無いだろう。おそらくこの者は、穹がいる方とは反対側、自分から見て右手に逃走を試みるはずだ。そんなことは明らかなので、すぐさま武器を構え直して行く手を阻み、手刀で相手の体勢を崩して、そのまま急所を突いて気絶まで持ち込んだ。
「穹!」
「分かった!」
滑り落ちる無法者の体躯を、穹が軒下で受け止める。しばらく目覚めることは無さそうだ。屋根や建物などに損害が生じていないことを速やかに確認して、自身も地上に降りた。
「丹恒、こいつどうする?」
「こちらに対する襲撃の意思が明確だった。このまま雲騎軍に引き渡そう……この者の武器はとってあるか」
「そっちに立てかけてある」
「分かった、それは俺が持っていく。重要な証拠品になるだろう」
外れから表に出たところで見廻りの兵士に事案を引き継いで、再びふたりで帰途につかんと歩みを進める。まさか第三者がいても襲ってくる者が出てくるとは――「危険なことに巻き込んですまなかった」と謝罪をしようとしたとき。
「あのさあ」
ふと、穹が、ぽつりと切り出した。
「どうした?」
「もしまた同じような事があったら、次は俺がやるよ……あんなこと言われるの、嫌だろ」
「聞こえていたのか」
此方の問いかけに無言で頷く彼の瞳は、今にも泣きそうな様子で濡れている。違うんだ。危機に曝したいわけでも、まして泣かせたいわけでもないのに。この身は侭ならないうえに、このようなときにどんな気持ちをどのような言葉で伝えれば良いのかも分からない。気が付けば界域アンカーの真横で立ち止まって黙考していた。
「ごめん」
「いや、いいんだ。確かに快くはないが、この力の代償は自ら負うべきものだ」
しかしながら、結局得られる解はいつも変わらない。この身から洗い流したものに関する責を、他の誰かが担うことは決してできないのだから。
「心配するな。お前が心でそのように思ってくれている限り、俺は耐えられる」
それでも、たとえ独りでこの功罪を背負い続けることになっても、誰にも護られていないとは思わない。今はそう思えるだけで、十分なのだ。
「――ん、そっか」