ミクロコスモス頒暦所

心秘めやかにして潮香を聞く

 仕事で医者市場に顔を出すと、端の露天素材屋のそばに、見知った、しかし珍しい姿があった。
 彼はどうやら珠守り人と会話をしているようで、一体如何なる用事でここを訪れているのだろうという疑問を抱きつつも、この前送った原稿の件でお礼を伝えなければ、と思った。
 その少年――星穹列車の穹さん――は、言動こそこちらの意表を突くものが多いものの、落ち着いて話をしてみると、案外その語彙や表現のあちらこちらに才識の広さを感じる不思議な人だ(ある意味それも〝意表を突く言動〟のひとつなのかもしれないが)。そういえば、原稿に助言をくれただけでなく、仕事に対して自分が抱えている不満についても意見を提示してくれた。持明族の身で長期的な視点の重要性を説かれる経験などなかなか無いものだが、人間というものは気が立っているとどうしても視野が狭くなるものだと理解しての発言なのだろう。
「霊砂?」
 自分が声をかける前に、相手がこちらに気付いたようだ。彼は「じゃあ」と珠守り人に別れを告げて、足早に階段を降りてきた。
「失礼しました、お取り込み中でしたか」
「いいや、もう話は終わっていたから、大丈夫」
「そうなのですね。最近何かとお世話になっていたものですから、直接顔を合わせる機会も多くはないでしょうし、お礼を申し上げられればと思いまして」
「気にしなくてもいいのに」
「そういえば……いえ、なんでもありません。こちらには、ご依頼か何かで?」
 聞くところによると、そう頻繁ではないが、時折こうして珠守り人からの依頼を受けて、鱗淵境の治安維持活動に協力しているということらしい。優れた土地勘と戦闘力があるとは言え、あの方たちは殊俗の民に下請けをさせているのかと溜息をついたところ、「俺がやりたくてやっているからいいんだ」と返された。大した縁も無いだろうに、報酬が貰えるとしても相当な物好きではないだろうか……。
 それからは業務に差し支えがない範囲で、他愛ない雑談を数分。少し前に話をした〝ほっとするような温かみがあって、安心感のある素朴な香り〟についてもいくつか香料の提案をしてみた。原料や成分の細かい話も彼は興味深く聞いてくれて、楽しみにしている、着いたら早速焚いて感想送るから、と期待に目を輝かせて笑った。穹さんに対して「捉えどころの無い不思議な気配が漂っている」と伝えたことがあるが、こうして話をすればするほど、全くその通りの人だと感じる。
「じゃあ、仕事の邪魔になったら悪いから、俺は列車に戻るよ」
「ええ、今度はゆっくりお茶でもさせていただければ幸いです。お気を付けて」
 ――身を翻して去って行く少年の後ろ姿を見つめながら、ぼんやりと思案する。
 ずっと気にはなっていたのだが、面と向かって尋ねるのも躊躇われたのだ。ふたりで話している間、辺りには変わった香りが仄かに漂っていた。深海鉱物に付着する有機物の匂いを中心とした涼やかなものだ。他人より優れた嗅覚を持っているので、彼が階段を降りてくる時点で確信に至ったが、あの組み合わせは明らかに自分が調合した香だった。以前自分が星穹列車に贈ったもののひとつで、しかしながらこれを宛てたのは穹さんではなく丹恒さんだ。なかなかに予想外な状況である。
(穹さんはこういうことに無頓着なのでしょうか。それでも丹恒さんの方が気にしそうなものですし、何も言われていないのであれば、まさか故意に……)
 そのとき、ふと「俺がやりたくてやっているからいいんだ」という言葉を思い出す。成程。真相を明らかにするつもりはないが、少なくともあのふたりは、きっと彼等しか知り得ない多くのものを水底で交わしているのだろう。

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