溺れてしまった
朝だ。
それに気が付き目覚めた穹は、がさごそと起き上がる。隣で寝ている愛しい人を起こさないよう、静かに。
一瞬だけスマホを手に取る。通知が溜まっているような予感がしたし、ゲームのスタミナも溢れていそうだったが、気怠さのせいかなんとなく気が進まなくて、電源ボタンを押すことなく布団に投げ出した。
しかしながら、こんなことは珍しい。普段は丹恒の方が先に起きていて、いつまでも寝ている穹を「朝だ」と自室まで叩き起こしに来るのがお決まりのパターン。それが、今日は逆である。
まあ、こんな状況を作り出したのは他でもない自分自身なのだが――と、穹は思い起こす。ええっと、昨晩自分は一体何をしていたっけ。彼のふわふわの髪の毛を撫でているうちに、なんか……お互いそういう気分になってしまった。口付けを交わし、しなやかな躰を組み敷いて、最奥まで暴き、意識を手放すほど溺れさせて――。そこまでのところで「これ以上はやめよう」と思案を断ち切った。起き抜けに良くない感情が沸き起こってしまう。
さて、ぼさっとしているのも暇であるし、二度寝して丹恒が先に起きるのはなんだか格好がつかない気もする。どうしよう、と考えた末に、コーヒーでも淹れようかと布団を抜け出した。理由は定かでないが、こういうときはなんとなく寛ぎに振り切った朝を過ごしたくなるものだ。
食堂車を覗き込んで姫子がいないことを確認し、二人分のコーヒーを用意して資料室に戻ると、丹恒が上体を起こしてぼんやりとしていた。これもまた珍しいことだ、と穹は笑みを浮かべて。
「起きてたのか? おはよう」
「……ああ」
「コーヒー淹れてきたけど、どうする」
「そうだな……」
そこで会話が止まってしまう。どうしたことだろう、目の前の彼が生返事しかしてくれない。穹の微笑みは怪訝な表情に変わっていく。
「張本人が聞くのも変な話だけど、大丈夫か?」
いたわりの意味を込めて丹恒に尋ねる。顔色が悪いとかではないが、傍目に見て明らかに覇気が無い。「心配は無用だ」と強がりを言われるか、「調子に乗りすぎだ」と悪態をつかれるかの二択だと思っていた穹の耳に入ってきたのは、想像を超える回答だった。
「今動くと……昨日の感覚が戻ってきそうなんだ……悪いが、コーヒーは机の上に置いて……しばらくそっとしておいてくれ……」
そう言いながら自身を見上げた丹恒の瞳を見て、穹はぎょっとした。端的に言うならば、明らかに情欲が尾を引いている。ついさっき〝起き抜けに良くない感情が沸き起こってしまう〟と不純な想念を振り払ったのに、こんな形で再燃することがあってたまるか。
「挑発にしか聞こえないぞ」
「そんなつもりでは……っ、う」
そう言いかけて、丹恒はびくりとその身を震わせて、そのままぐったりと横になってしまった。
「マジか……」
穹は一人ぽつりと零す。丹恒が二度寝だ! 今日は珍しいことだらけだが、おそらくこれ以上の珍事は起こらないだろう。
そのまま彼は考えを巡らせる。なんという光景だろうか。愛しい人が、今までに味わったことの無い快楽と恍惚を叩き込まれて、それを忘れられなくなってしまっている。次のなんでもない夜に〝そういう〟つもりで濡烏の髪を撫でたら、どんな反応をしてくれるだろう。
自らの行いが、恋人の感情を支配し、その日常を掻き乱している。そんなことを思いながら、喜びを覚えている自分がいた。この嗜好はカフカにでも仕込まれたのだろうか。心がそわそわと浮き立って、背筋にぞくりとした感覚が走る……今の自分は、たいへんに良からぬ顔をしているはずだ。
それに気付いたのか、丹恒がふと口を開く。
「……悪い遊びを覚えた顔をしているな」
あーあ、そんな表情で何を言ってるんだか。「ブーメラン」ってスラング、知ってるだろ。
「鏡見てみるか? 丹恒も人のこと言えない顔してるぞ」