菓子と誤解を溶かし合い
穹に「借りたい本がある」と頼まれたので、指定された本を資料室から持ち出して、彼の部屋を訪ねた。扉をノックすると「どうぞ」と声が聞こえる。中へ入ると、少年はベッドに寝転び、端末でゲームに勤しんでいた。
「頼まれた本を持ってきた。机の上に置いておけばいいだろうか」
「ありがとう。そうだな、そこら辺に――あっ」
穹が声を上げたのと、俺が机上にある白い瀟洒な紙袋を視界に入れたのは、ほぼ同時の出来事だった。振り返ると、彼は飛び起きてやや取り乱した表情をしている。俺の勘が告げている……これは、なにかやましいことがあるときの顔だ。
「この袋がどうかしたのか? 中に何か入っているのか?」
「チョ、チョコレート……ヘルタで……」
ちょっと追及してみたところ、穹はあっさりとその正体を白状した。
チョコレート。そういえば、カンパニーの通販サイトに特設ページがあったな、と思い返す。毎年この時期、どこの星の話だったかは忘れたが、愛する者へチョコレートを贈る風習があるとかどうとかで、おおよそ食べ物とは思えぬ美しい見た目をした菓子の画像がぎゅうぎゅうに並んでいた。
彼はこの贈り物を、ヘルタで何者かから受け取ったのだろうか。俺は自身の心に、あまり良くない類いの感情が湧き上がってくる――否、沸き上がってくる、とした方が適切か――のを感じた。
「一応聞いておくが……お前は、この時期に他者へ菓子を贈る行為の意味を理解しているか?」
この質問に対して、「知らない、何か意味があるのか?」と返してくれれば、どれほど良かったことだろう。しかし、これほど慌てた表情をしているのだ。俺が期待していた答えを、穹がくれるはずは無い。
「わ、分かってる」
分かってる――つまりこの少年は、誰かからの愛情の証を受け取ったということになる。俺という存在がありながら、だ。
確かに、彼は確かに、あらゆる人間を惹きつけて止まない魅力を持っている。それは紛れもない事実だ。そして〝あらゆる人間〟というのは自分とて例外ではなく、現に今、俺は「このような卑しい思いを抱いてはならない」と自覚しつつも、彼を追い詰める言葉が止まらなかった。
「そうか。これは誰から貰ったんだ」
「待ってくれ、その、違うんだ」
「何が違う?」
「っ――!」
言葉だけでは飽き足らず、感情に流されるまま、青ざめた顔で息を詰める穹をベッドに押し倒す。言葉で逃げ道を塞いで躰を組み敷くこのやり方は、いつも情事の際に彼が自分を追い詰めるときと同じだと気がついて、胸が張り裂けそうな思いを味わった。
「お前は俺に、形だけの弁明や虚言を吐くつもりか?」
肩を掴む手にぐっと力を込めると、痛みからか、穹は眉を顰める。
そこにある行動原理は決して愛情ではない。いや、愛情ではあるのかもしれないが、いつもふたりで交わすそれとは違う、もっと黒い穢れに塗れたものだった。彼の事を愛さなければ、こんな感情に支配されることは無かったのだろうか? しかし、もう後戻りはできない。今や自分は、彼無しでは生きていけないのだから。
衝動的にその唇を強引に奪おうとしたところで、穹が空いた手で俺の顔を押さえつけて、叫んだ。
「お――俺が買ったんだ!」
そこで一瞬の間を置いて、止まっていた思考の歯車が再び動き出す。穹が買った? 自分で? 貰ったのではなく?
数秒経って、ようやく気がついた――何か俺は、とんでもない思い違いをしているようだ、と。
「お前が、買った?」
「そう……好きな人に、チョコレートをあげるんだろ。俺だって知ってるよ。だから、丹恒にあげようと思って……でも机の上に出しっぱで、見られちゃったから……」
「……」
「あの、とりあえず、本当に、誰かに貰ったとかじゃないんだ。決済履歴と明細が残ってるから、それで信じてくれるか?」
そう言って、彼は枕元へ投げ出された端末に手を伸ばそうとする。これ以上現在の態度を維持する理由が無いので、俺はそれを制止した。
「……いや、いい。俺が……悪かった……」
先ほどまでの濁った感情はどこへやら、今度は一転して、誤解から穹を責め立ててしまった後悔の念に襲われる。謝罪の言葉と共に頭を下げると、穹は俺の髪の毛をくしゃくしゃと撫でて、それから優しく抱きしめてきた。
「丹恒って嫉妬深いところあるよな。負けず嫌いだから? それとも、用心深いから?」
「皆まで言うな……」
そう、彼の言う事は全く間違っていないのだ。負けたら死ぬしかない、誰も信じられない――そんな半生を送ってきたものだから、こうして手に入れた親密な関係が壊れてしまう事を、過剰に恐れているのかもしれなかった。
「驚きはしたけど怒ってないというか、むしろ嬉しいまであるな」
穹はそんな俺を、許すどころか喜びを以て受け入れてくれる。その事実に、どうしようもなく満たされる自分がいた。情けない話かもしれないが、彼が別に他の誰かに心を寄せているわけでもなく、そして自分の卑しい思いを拒むわけでもなく、その事に対してひどく安堵してしまったのである。
あ、そういえばさ。と、穹が喜色を浮かべて続けた。
「本当にあのチョコレートが誰かから貰ったものだったら、丹恒、あの後どうするつもりだったんだ?」
「あの後……?」
つまるところ、彼の事を組み敷いて無理矢理口付けをしようとした事の続きを指しているのだろう。聞かれてみれば自分でも気になるのだが、あのときの衝動は既にさっぱりと消え失せており、今からその〝もしもの話〟を辿るのは難しい。
「……あれは、後先考えずに……。だから、どういうつもりでとかは、特に無かった……」
「そう? だったら、あのまま止めずに観察するのも悪くなかったな」
「揶揄うな。後々、俺の感情がますます居た堪れなくなる」
確かにそれは可哀想だな、と穹がけらけら笑う。
「まあ今回の件に関しては俺も悪かったよ」
それから続いて投げかけられた突然の謝罪に、俺は混乱した。今回の件といったら自分に非があるのであって、彼は何も悪いことをしていないはずだが。
「それはどういう――」
「丹恒が嫉妬するって事は、つまり俺の愛が足りないって事だろ」
「……は」
「そして衝動的に俺のこと襲おうとしたって事は、心の内にああいう欲求を隠してるって事だろ」
「はあ……?」
間違ってはいないので反論はできないのだが、あまりにも唐突に指摘を受けたので、困惑はする。彼の発言の意図を理解しようとしたところで、穹は抱きしめた俺の躰を横倒しに転がそうとしてきた。――これは、嫌な予感が。
「この後ラウンジにでも行って、一緒にあのチョコレートを食べようかなって思ってたんだけど、気が変わった。今から丹恒の欲望を全部引きずり出して満足させるまで、部屋から出さない」
「おい、待て――」
……『丹恒の抱えている欲望を全部引きずり出す』だと? さてはこの少年、俺の事を相当見くびっているらしい。これは、少なくとも一晩はここから出られない展開になるだろう。
それにしても、本を渡すだけのつもりだったのに、まさかこんな目に遭うことがあるだろうか?
あの日の騒動から二日が経った。
買ってきたチョコレートを贈り物だと勘違いされて、衝動と嫉妬心が赴くまま、丹恒に押し倒された。彼もそんな行動に出るんだ、と思うと同時に、そんなに深い執着心を抱えているなら、それを暴いてみたいと思った。だから、誰にも言えないような欲望でも、俺なら満たしてあげられるから、全て曝してほしいと。そう唆したのだ。
今思えば、精神的には満足しているが、身体的には止めておけば良かったと思っている。ゲームで例えるならば、MPは全回復したけどHPはゼロ、そんなところだ。
おそらく事の始まりは昼過ぎだったと思うが、あの時の丹恒といったら滅多に拝めない様だった。もう一度俺の事を押し倒して、「さっきの言葉に嘘は無いか」と真剣な顔で問うてきた。「当然だろ」と応じると、彼は徐ろに端末を取り出して「明日の朝まで俺と穹の食事は不要だ、おそらく昼は食べる」とパム宛にメッセージを送りつけたのであった。それから時間が分からなくなるほどに躰を重ね続けて、疲れ果ててそのまま眠り、気がついたら丸一日が経過していたという訳である。他人のことを言えたくちではないが、男の体力というものは本当に恐ろしい。そんなこんなで翌日は寝るばかりで、今日になってようやく朝から動けるようになった、という訳だ。
そして、ここまで来てようやく俺は「買ってきたチョコレートをまだ渡していない」ということに気が付き、今はふたりでラウンジのソファに腰掛け、例の紙袋をがさがさと漁っているところである――。
「見て丹恒!」
俺の買ったやつ! と高らかに宣言して取り出したのは、好きなフレーバーを選んでクリアバッグに詰め合わせる、量り売りのチョコレート。お値段はグラムあたり10信用ポイント。大体十粒で100グラムなので、1000信用ポイントちょっとあればそこそこ見栄えする量を買うことができるし、実際買ったのもちょうど十粒だ。「どうぞ」と渡すと、丹恒は「ありがとう」と言って、するするとクリアバッグのリボンを解いた。……なんと言うべきか、お菓子の封を開けるだけで、ものすごく絵になる。この美青年はずるいな、と思った。
「味は……ハニーレモンと抹茶……」
「そういえば、抹茶って何のお茶なんだ?」
気になって尋ねてみると、丹恒は鳩が豆鉄砲を食ったような表情を浮かべた。失礼な。羅浮で飲んだ仙人爽快茶や濃茶とは全然違った色をしているから、本当に想像ができないのである。
「抹茶は……緑茶の葉を細かく砕いた粉末のことだ。少量の湯で練ったものを飲むこともあるし、お前が買ったもののように菓子の風味付けに使うことも多い」
「流石は丹恒先生」
「妙な取り合わせだと思ったが、知らずに買ったのか」
成程、ここでようやく俺は、さっき丹恒が呆気にとられていた理由を理解した。自慢ではないが、その通り、知らずに買った。「緑色のやつが欲しい」と店員に相談したら、「ピスタチオか抹茶が緑色ですよ」と言われた。味のイメージがいまいち湧かなかったので「甘さ控えめな方はどっちか」と聞いてみたら、「それなら抹茶の方が良いかと思います」と勧められたのだ。ハニーレモンも同じように選んだ。「黄色くてそんなに甘くないものがいい」と伝えておすすめされたものだ(これは流石にどんな味か想像できる)。
それでは、どうしてこのような選び方をしたのかというと。
「丹恒が美味しく食べてくれて、あと俺たちの色がいいなって思ったの」
そう言ってみると、ついさっきまで滑らかな語り口だった丹恒が突然押し黙ってしまった。これは多分、照れている。いつもはすごく頼りになるクールなイケメンなのにこういうときはちょっと可愛いから、やっぱりこの美青年はずるいな、ともういちど思った。
「……そう言われると、口に入れるのが気まずく……」
「いや、そこは食べてくれよ……」
俺が食い気味に不服を申し立てると、彼は「分かった」と言って、ものすごく恥ずかしそうにハニーレモンの粒をつまんだ。ふーんそっちから食べるのか、などと思っていると、どういう訳か、俺の手にもひと粒握らせてきた。
「え、くれるのか?」
掌の中には、抹茶のチョコレートがちょこんと転がっている。
「……知らない味なんだろう」
あ、なんとなく分かってしまったな。これは恥ずかしいのを誤魔化すつもりで言っていて、きっと自分の色を俺に食べてほしいのだと察した。指摘するとへそを曲げるかもしれないので、とりあえず「確かに」と返し、包みを広げて緑色のまんまるを口に放り込んだ。苦みはあるが甘さもちゃんと感じられる、ちょっと不思議な味わいだった。
「なんか丹恒みたいな味がする」
「はあ……?」
いかにも「理解不能だ」と言いたげな顔の丹恒が、じろじろとこちらを見つめてくる。
「ハニーレモンも俺みたいな味かもしれない、爽やかで甘酸っぱい」
「それ、自分で言うか」
「否定はしないんだな」
――ちょっと揶揄ってみると、先程とは一転して、今度は目を合わせてくれなくなってしまった。明後日の方向を向いて、彼はその手に持ったままだったハニーレモンのチョコレートを口に含む。
「……穹みたいな味が、する」
「ん、そうか」
チョコレートはあと八粒も残っている。という事で、普段は冷静で寡黙なこの青年の、この愛らしい姿をもう少し拝んでいても、罰は当たらないだろう。ハッピーバレンタイン、俺の愛しい丹恒へ。