貴方の深雪を溶かす春になりたい
※ 学パロです。
夕飯と入浴を済ませた寮生たちが、各々自由なひとときを過ごしている。
この時間になると、丹恒は基本的に自室に引きこもってしまう。ご飯のときに約束しておけばよかったな。そんな後悔を抱きながら、端末のメッセージアプリを起動した。
「自習してたらごめん」
「談話室来れる?」
「数IA聞きたいんだけど」
そんなメッセージをぽんぽん、と彼に送ったところ、すぐに返ってきたのは「準備する」という一言。ひとりでいる時間が長そうな割にこういうところはマメだよな、などと考えていると、数分後に扉ががらがらと音を立てた。
「ありがと」
「いや、いい。どの問題だ?」
「これなんだけどさ……」
テーブルの隅に避けておいた演習テキストを手に取る。右隣の椅子にかけた丹恒へ渡すと、彼はなかほどに貼られた緑色の付箋をつまんで「ああ」と呟いた。
「もしかして大問3のODか?」
「え、やっぱ難しいよな、それ」
「まあ、理系視点で難問なら文系視点でも難問だな……皆『分からない』と悲鳴を上げている」
「丹恒、できた?」
「IAの範囲では分からなかったから、二倍角の公式で解いた。それでいいなら教えられる」
「いや、さすが丹恒、全然いいよ!」
文系なのに俺より数学得意なんじゃないの――とは流石に言いづらい。去年の担任が理系進学を勧めたのも知っているし、家庭の方針でそれを彼が断ったのも知っているから。
丹恒は由緒正しい家柄の出身で、きっと経済的にもかなり豊かだ。でも、それと引き換えに面目問題や権力争いといったものが存在するようで、曰く「俺はその過程で干された人間」らしい。対して、戸籍も記憶もお金もすっからかんで拾われた自分は、ヨウ先生と無量塔先生くらいしか大人を知らないもので、この人の抱えるもやもやをこれっぽちも理解してあげられない。
そんな彼の数学の授業はとても分かりやすいものだった。まあ数字だって言語と同じく人間の偉大な発明品なのだし、実質数学も文系教科だ、ということでここはゴリ押そう。
次第に人が減っていくこの部屋の様子と反比例するかのように、ノートが図形と計算でみちみちになっていく。しかしながら、答案の終わりは「1」だった。そういうところあるよな、数学って。爽快感半分、拍子抜け半分の感情で大きな息を吐き出して、シャープペンシルを放り出す。
「本当に助かった!」
「大丈夫だ。代わりと言っては悪いが、俺も論理国語の記述を見てほしい。明日板書解答を当てられている」
「オッケー、任せて」
分かる、板書って緊張するよな。演習テキストの付箋を剥がして丸めつつ、二つ返事で頷く。
これはちょっとした誇りなのだが、自分は理系にしては国語が得意な方だ。難しい文学国語とか古典までいくと流石に厳しいけれど、論理国語なら文系とも戦えるレベルである。そう思って丹恒のノートを開いた。
「一二〇字……」
前言撤回かもしれない。一二〇字? いや一二〇字は流石に多い。日常生活でそんな長さの文章、書かないだろ。普通。
とはいえ、任せてと豪語した以上、尻込みするのも情けないので、ざっくりと丹恒の答案に目を通す。「この部分、どういうことか分からないかも」とか、「この述語に対応する主語を入れた方がいいんじゃないか?」とか、そういったアドバイスをした。「短文なら意識できることも、こういう状況だと見落としてしまうんだ」と丹恒は言う。確かに、数学の記述でも、長くなればなるほど言葉や記号の使い方でよく指摘を受けるな、と思った。
「ついでで頼んですまなかった」
「全然。困ったときはお互い様ってことよ」
貸し借りを気にしない関係は学生のうちに築いておくべきだ、と、随分前にヨウ先生が教えてくれたことがある。当時はあまり腹落ちしないまま頷いたけれど、こうやって丹恒の一歩引くような物言いを何度も聞くうちに、なんとなくその言葉の意図を理解するようになった。それと同時に、せめて自分には遠慮してほしくないとも思いながら、今もこうして彼と関わっている。
そうして気が付いてみれば、談話室にいるのは自分たちふたりだけになっていた。時刻は21時半。ああ、共用スペースはもうすぐ消灯だ。そうでなくても、このまま丹恒を用も無く拘束するわけにはいかない。
「部屋、戻るか」
そう言いながら、あちこちぶちまけた消しかすを集めていく。この時間になるといつも沸き上がる一抹の不安もここに混ぜて、ゴミ箱へ放り込むのだ。
一年前のある日、気が付いたら自分はこの学校の施設内にいた。名前は覚えていたけれど、本名かどうかは分からなかった。何が何だか分からないまま歩いていると、その週たまたま掃除当番だったというふたりの学生と鉢合わせて、そのまま無量塔先生のところに連れて行かれた。役所で色んな質問に「分かりません」と答えて、顔写真を警察に送って捜索願との照合もしてもらったのに結局何も分からず、病院でも特に異常は無いと診断され、どうしようもなくなって。中学校くらいまでの授業内容は覚えていたので、とりあえずこの高校に通う1年生ということにしてもらった。それから何度も裁判所へ通って、新しい戸籍を取得したのは、ついひと月前の話だ。
つまるところ自分は、ひとりになるたびに、夜眠るたびに、「これからどうなるのだろう」という恐怖を抱くのである。談話室で誰かの気配に埋もれていたいのも、今日こうして丹恒を呼んだのも、そのせいだ。
「……そうか」
そんな彼は明らかに何か言いたげな表情をしていた。もしかしたらこちらを気にかけるような言葉を伝えたいのかもしれない。しかし、丹恒は自分の感情を伝えるのは苦手だと言っていた。それを分かっていて、何でも無いふうに「じゃあまた明日」と笑う自分は、本当に卑怯な奴だなと――心から、思う。