龍罰覿面
具合が、良くない。
冬の城、ベロブルグ。本日の天候は猛吹雪。これ程の極寒では、地髄加熱器を稼働させたところで気休めにすらならないだろう。そんな中で具合が良くないとなったら、冷えすぎて体調を崩したのか、というのが、まず始めに考えることかもしれない。しかし、原因は他にあると、穹の本能は訴えている。
身に覚えは、ものすごく、あった。先刻下層部で、「依頼をこなした報酬に」と貰って飲み干した、野菜スープだ。相手が人の良さそうな男だったから、油断していた。単純に傷んでいたのか、まさか毒が入っていたのか。行政区で少し店を覗いて――営業しているのか定かではなかったが――帰ろうと思った矢先に、猛烈な吐き気を催したのだ。
胃の中がひっくり返りそうな気持ち悪さを我慢して、界域アンカーを目指した。こんな青ざめた顔を見られたら? 経緯を正直に話したら?「出処が怪しいものを軽率に口にするな」と、列車の色んな人が長々と叱ってくるだろう。
しかし、今はとりあえず、帰らなければならない。真っ白な視界に、見慣れた光がぽうっと浮かぶ。あともう少し。あと、もう、少し――。
穹が目覚めたとき、彼は星穹列車のラウンジにある大きなソファへその身を横たえていた。
布団やベッドに寝ているわけでもないのに、どこか温もりを覚えて、きょろきょろと辺りを見渡す。身体には、自室にあるはずのふかふかな毛布がかかっている。そして枕だと思っていたものは人の大腿だった。一体、誰の……?
「目が覚めたか」
「え、俺」
暗闇から引き上げられるかのように、穹の意識はだんだんとかたちを取り戻し、その視界が青年の顔貌を捉える。青年――丹恒の表情は、怒りでもなく、呆れでもなく、ただただ穹の身体を案ずるようなものだった。
「行政区の端で倒れていると連絡を受けて、俺がここまで運んできた」
表情からは一抹の不安が感じられるものの、その声音や挙措はどこまでも落ち着いていて、まるで凪いだ海のようだ。穹は胸をなで下ろす。そうか、丹恒が助けてくれたのか。と同時に、申し訳なさがこみ上げてきた。
「見つけたときは随分と冷えていたが、身体は平気か」
「大丈夫そう……助けてくれてありがとう。というか、なんか膝まで借りちゃって、ごめん」
そう言いながら上体を起こそうとしてバランスを崩した穹の肩を、丹恒が咄嗟に掴む。目は覚めたが、まだ本調子ではないようだ。それをくみ取った丹恒の選択は、お説教などは後にして、今はただただ彼の事を労るべきだろうというものだった。
「……謝らなくていいから、今日はもう寝るといい。部屋まで送ろう」
その翌日の深夜――。
ボルダータウンの端の端、フェンス際にへたり込む男がひとり。
「お前は……」
彼は得物の鋒を向けられ、険しそうな顔で、その身を震わせている。
そんな男を見下ろすのは。
「っは、ファイトクラブの〝冷徹な蒼龍〟じゃねえか……夜中にいきなり襲ってくるとは、良い御趣味だな」
揺さぶりをかけるつもりだったのか、あるいは本心からそう口にしたのか。答えは定かでないが、いずれにせよ〝冷徹な蒼龍〟は、その名の通り一切の動揺を見せないまま、男に向かって撃雲を突き付ける。
「善意を装って他人に毒を盛る奴には遠く及ばないと思うが」
「ハッ、なるほど。お前、あの英雄サマの仲間だったか」
そう言うなり、男は懐から小銃を取り出し、槍の持ち主に向かってその砲口を向けた。槍と銃では銃の方が強いという確信を持っていたのか、しかしながら〝冷徹な蒼龍〟の名がなにも単なる比喩ではないということを、彼は知る由も無かったのだ。
男が引鉄に指をかけた瞬間、暗闇に翡翠色の光が散って消える。
「な――」
何が起こったかを認識しようと思うよりも前に、彼の足下からしなやかな鞭のように水龍が飛び出し、その身体を掬って締め上げた。手にしていた小銃は地面に叩きつけられて、カツン、と、硬い音を響かせる。
さきほどの光とこの状況が〝冷徹な蒼龍〟によってもたらされたものであると男が理解するまでに、そう時間はかからなかった。ぎり、と、革の擦れる感覚が、身体に伝わってくる。彼は予感した。このままだと――。
「や、やめろ! 殺す気か!」
髪を振り乱す勢いで抵抗しながら、男は叫ぶ。
「いざ自分が生命の危機に晒されたら命乞いか」
「は……」
「安心しろ。俺もここで無意味な殺しをする心算は無い。今すぐ全ての武器を捨てて大人しく地炎に突き出されるというのであれば、解放する」
男は顔を見上げる。目が合った〝冷徹な蒼龍〟は、先程までとは打って変わって、明らかにヒトではない容貌をしているではないか。「無意味な殺しをする心算は無い」と言いながら、その爛々とした両眼からは、己が盛ったものよりも遙かに強い、猛毒のような殺意が滲み出ていた。
「分かった、分かったから。殺すのだけは勘弁してくれ!」
彼がそう乞うと、ばしゃ、と、龍が弾けて消えていく。飛び散る水で一瞬視界がぼやけて、それが明瞭になる頃には、目の前の青年は見慣れた姿へと戻っていた。まるで何かに化かされたような心地で、男は問う。
「お……お前は、一体――」
匿名希望の男によって、犯人がなにやら冷え切った身体で地炎へと突き出されたらしい。そんな話を穹が聞いたのは、それから数日経った後の出来事だったという。